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東海道の渡し船「七里の渡し」に乗ってみた

こんばんは。

 

七里の渡しに乗りました。

 

江戸時代に整備された東海道五十三次。東海道は、江戸から京都までずっと陸路なわけではなく、海路もありました。それが、七里の渡しです。

 

❏ 七里の渡しとは

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引用 Wikipedia

七里の渡しは、熱田神宮を前にした宮宿から、桑名宿までの27.5km(27.5/3.9≒7里)を結びます。なぜ陸を行かなかったのでしょう?

江戸時代までの尾張西部は、陸地が安定しませんでした。ここは木曽川・長良川・揖斐川(木曽三川)の合流域で、川が運び込む土砂の堆積で水深が浅く、洪水が頻発していました。このようなところで陸路にこだわると何度も渡船や徒渉が必要とされます。そのため、律令時代から東海道では尾張国と伊勢国を結ぶのは陸路ではなく、伊勢湾を経由する海路で木曽三川をバイパスしていました。

引用 願證寺

引用 Wikipedia

江戸時代になり、宿駅制度が整備されると東海道五十三次が成立しました。このバイパス海路を七里の渡しと呼び、その起終点は尾張国 宮宿(愛知県名古屋市熱田区)と、伊勢国 桑名宿(三重県桑名市)に設定されました。このような背景で、東海道には公式に海路が設定されています。宮宿と桑名宿は、東海道の中でも一番、二番目に旅籠屋の多い宿場町だったとされています。

一方で、全員が七里の渡しを使ったわけでもないようです。旅人が取れる選択には、海難事故の回避や節約のために津島を経由する脇街道佐屋街道三里の渡し、もっとリスクを回避して宮宿から中山道垂井宿まで中継する美濃路を使う陸路、あるいは宮宿から四日市宿を一気に結ぶ十里の渡しを使う海路がありました。

 

江戸時代後期になると、木曽三川による土砂堆積が尾張西部に大きく影響してきます。

まず、陸地です。石高向上のために干潟の新田開発が進められ、海岸線は江戸時代初期から後期にかけて大きく変わりました。

次に、洪水です。洪水は石高に直結するゆえ、せっかく新田開発しても水浸しになるようでは農民の憤りは絶えません。貨幣経済の発達に伴って江戸幕府・尾張藩の権威が衰えてきた中で、尾張藩は農民の不満を抑えるべく木曽川の堤防整備を施しますが不十分でした。この治水は、明治時代に木曽三川分流工事が敢行されるまで解決されませんでした。

そして、水運です。土砂堆積に伴って佐屋川に流入する水量減少により水位が低下し、三里の渡しの佐屋湊は船が進めなくなってきました。もともと佐屋湊も、すぐ上流の津島湊の代替として作られたものでした。しかし、佐屋湊は150年で機能不全に至ります。

熱田湊も程度の差はあれど影響を受け、大潮の干潮時には沖留めをして小渡し船で上陸しなければならない記録もあります。また、名古屋沿岸は遠浅な海のために、七里の渡しでは大潮の干潮と満潮で経路が異なりました。干潮時は大きく迂回する必要があり、十里程度あったと言われています。当時、七里の渡しでは4~6時間程度でしたが、沖周りではさらにかかったでしょう。遠回りで十里かかるのなら、そもそも七里の渡しではなく十里の渡しに乗ったほうが合理的ではないでしょうか。実際、江戸中期以降は、十里の渡しの利用が増え、そもそも桑名を経由しない選択が取られるようになりました。こうして、木曽三川によって生まれた七里の渡しは、木曽三川によって存在を脅かされることになりました。

 

明治時代になると、転機が訪れます。新東海道の制定です。宮宿から陸路で弥富市の前ヶ須宿へ向かい、二ッ屋の渡しで桑名宿へ至る前ヶ須街道が東海道に採用されました。現在の名古屋では、東海通という名残になっています。新東海道によって少しの渡し船で済むようになり、七里の渡しをはじめとする東海道の海路3種類は急速に廃れました。この30年後にはこの区間に鉄道が開通し、長距離移動の需要は代替され、現在に至ります。

 

❏ 七里の渡しに乗りたい

街道の渡し船は全国各地にありましたが、七里の渡しほど海路・陸路が複雑に変遷する例はありません。おもしろそうですよね。街道巡りの血が騒ぎます。そんな七里の渡し、現代でも乗ることができます。方法は2種類。

ひとつは、船を貸切ること。エンジン付きではありますが船をチャーターできます。人数に応じて船の大きさと価格は前後するそうです。

七里の渡し | おおぜき

 

もうひとつは、NPO法人 堀川まちネット開催による「七里の渡し船旅 学習会」に乗船することです。年に1回運航されます。今年はあまりに人数が多く、3日運航されることになりました。以前から気になっていたので、またとないチャンス。すぐに満席になりました。応募は、メール問合せの先着順で、郵便振替払込によって支払います。ただ、郵便振替払込は休日の郵便局窓口で対応できないので、該当する口座へ直接振り込みました。

東海道七里の渡し|堀川まちネット

 

2025/11/2
10:00 熱田神宮

せっかく宮宿から始まる旅なので、きよめ餅を買っていきます。写真を撮り忘れたので、以前に佐屋街道を辿ったときの写真で代用ですが...

 

きよめ餅自体は江戸時代からあったわけではなく、昭和に始まった和菓子です。熱田神宮にも赤福のような名物を作ろうという試みから生まれました。こしあんを羽二重餅で包んだおいしいお菓子ですので、ぜひ買ってみてください。熱田神宮はもちろん、名古屋駅の土産売場にもあります。

きよめ餅総本家

 

宮の渡し公園が集合場所。ここには時の鐘が保存されています。熱田神宮の表参道からまっすぐ南へ進むと東海道で、宮の渡し公園に至ります。かつて宮宿は旅籠屋でひしめき合い、食事はうなぎとかしわが名物だったそう。今では明治6年創業の老舗うなぎ屋 あつた蓬莱軒がその面影を語ります。

 

11:00 熱田湊

カラフルな船で七里の渡しは熱田湊を発ちます。水門を通過するごとに速度を上げ、堀川を下ります。

乗客のうち愛知県から来た人は私たちだけで、他は関東や遠方の方で占められていました。東海道五十三次を日本橋から三条大橋まで歩いている人が11名。そのうち、今日、七里の渡しを乗れば踏破する人は2名だそう。友人も連休のたびに東海道を歩き続け、今日無事に乗れました。私も浮世絵のポストカードを集めていますが、比べることで歌川広重が見た景色に思いを馳せられます。時間旅行を楽しめるのが街道巡りの醍醐味です。この価値観はおそらく乗客全員で共有しているのかもしれません。もっとフランクに来る人もいるのかと思っていましたが、想像以上に猛者揃いでした。

 

金城ふ頭の横を進み、名古屋港へ出ます。

 

この日の気温は21℃ですが、冷たい海風が身体を冷やしていきます。かつては干潟に溢れた名古屋港も、今では広く埋め立てられ、輸出を待つ車が並ぶばかり。文明開化から150年でこうも景色が変わるか。

 

揖斐川を遡上していきます。木曽三川には大きなダムがいくつもありますが、それでも土砂の堆積は絶えないようで、名古屋港では24時間海底を掘り続けています。揖斐川も水深が浅くなりつつあり、今回のような60名乗る船では、座礁しないように詳細な航路の指示があるのだそうです。

 

13:00 桑名湊

熱田を発って2時間。桑名城の蟠龍櫓(ばんりゅうぐら。入港する船の監視棟)が見えてくると桑名湊です。本来は伊勢国 一の鳥居が船着き場でした。今回は船の大きさの都合で、住吉神社の横に係留されます。

 

これより先、伊勢国。

 

集めている東海道五十三次のポストカードと見比べてみたり、贅沢な聖地巡礼です。

 

桑名といえばはまぐり。桑名の老舗はまぐり料亭は1ヶ月先まで予約で埋まるほど人気なので違うお店を目指します。少し歩くとラーメン屋があります。ここのはまぐりラーメン、脳天突き抜けるほどおいしかったです。はまぐり、しじみ、あさりで取った出汁から仕立てた塩ラーメン、絶品でした。ミシュランガイドに載るのも納得、おすすめです。

三重・桑名のラーメン屋、らぁめん登里勝(とりかつ)

 

もうひとつ桑名といえば安永餅。安永餅の有名店は2ヶ所あり、ひとつは永餅屋。お土産でよく目にします。もうひとつは柏屋。桑名駅前に構え、焼き立てをいただけます。

安永餅を買って近鉄に乗って帰りました。かつては4時間、復刻して2時間かけた船旅も電車で30分。街道巡りのたびに思いますが、つくづく時代の発展に驚かされます。

毎年すぐに満席になる七里の渡し。詳細な資料や解説も併せて楽しめる東海道のガイドツアーとしては、とても素晴らしい体験です。街道巡りがお好きな方は、ぜひチャレンジしてみてください。

 

❏ おわりに

人は道を進みます。人が行った先でまた人が動きます。そしてそれは町が動き、国が動くことに繋がります。私たちが暮らせるのも、道があったからに他なりません。こうした時間を介した繋がりを持てることが、街道巡りの魅力でしょう。その中でも、400年前の海路を調べられること、それを体験できること。これは残されたものを楽しむ人がいるだけでなく、残したい人がいるからこそ成し得るものです。私もラリーという形で残せるでしょうか。試してみます。

 

参考文献

宮崎勇輔. 江戸期の東海道佐屋路と佐屋宿(前編). 金沢大学文学部地理学報告 1号, 1984
新修名古屋市史 編纂委員会編. 新修名古屋市史 第5巻. 名古屋市, 2000
歌川広重. 東海道五拾三次之内. 保永堂, 1834