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みちのくのはて

 

 

東北って、みちのくというじゃないですか。
みちのくって、陸奥と書くじゃないですか。

 

どんだけ奥なん?

 

この問いに答えるべく、東京の日本橋から奥州街道を駆け上がり、目指すは本州最北端の大間崎。1,000km先の津軽海峡に何を思うか。

 

これは、東北縦断自転車旅の話。

 

 

❏ 目次

 

準備編

❏ 背景

これまで、私は日本を語れる日本人を理想に掲げ、日本を知るべく列島をスキャンするように走り続けてきた。そのうちに、日本文化の原点は山岳信仰にあると考え始め、百名山を拝んではその地域の理解に努めた。その過程で、最果ての響きに心が躍るようになった。ついには日本本土四端、九州四端、本州三端と巡り踏破してきた。

2021年8月に挑戦した日本縦断グランツーリスモ 宗谷縦走 では、大間崎踏破の予定だったが当日に橋が崩落し断念。大間崎は、20代を通して日本を駆け巡る旅の在り方で残した、最後の宿題だった。

最も簡単な大間への行き方は、函館からの渡船である。函館空港を使えば公共交通機関だけで1日で来訪可能だ。しかし、何度も大きな旅を繰り返して踏破を重ねたにも関わらず、どうして大間だけを安易に済ませられようか。大間へ誘うみちのくの響きで旅を紡ぐことが、私なりの敬意の示し方なのだ。

長い旅程が予想される。長期連休を使おうにも年末年始・GWは雪で難しい。台風リスクから夏季休暇でも収まらない。そこで、新婚旅行の休暇と30歳で付与される慰安休暇を活用して、慶事休暇+慰安休暇の26連休を爆誕させて挑む計画を立てた。

 

 

❏ 目的

目的:大間崎踏破
目標:東北地方の歴史を知る物見遊山

手段:奥州街道を辿る自転車旅

経路:日本橋→奥州街道→大間崎
日程:10泊11日
距離:1,000km

 

 

みちのくを知りたい。

断片的にしか知らない東北地方。白河の関、奥州平泉、恐山。その名を聞けば太古の歴史に思いを馳せずにはいられない。幾多の歴史の舞台となった街道の時代の変化を見たい。教えてくれよ、奥の道よ。

みちのくを感じたい。

東京湾を離れ、津軽まで海を見ない旅路。最果てでついに見る海は、最果ての彼方に浮かぶ北の大地は、一体私にどれほどの感情をもたらすのだろうか。教えてくれよ、奥の道よ。

みちのくに旅を見出した人と言えば、松尾芭蕉だ。芭蕉は俳諧として歴史に名を遺すべく、生涯の旅を『おくのほそ道』に託した。旅路を詩にする。なんと情緒の豊かな味わい方だろうか。私もこの先これほど壮大な旅はできなくなるだろう。せっかくならこの旅情を残すべく、足取り確かに道中の景色を楽しみ、歴史に触れながら、言葉に残す奥州縦断紀行としたい。

 

本稿では、私の備忘録として、旅路の時代背景となる日本史にも触れる。全編2.7万字に及び、読了に30分要するかもしれない。みちのくの奥深さを感じてもらえることを願う。

 

 

❏ 奥州街道とは

みちのく。

都からの遠景を想わす、魅惑に満ちた言葉だ。そして、私にとっては、何度か旅を試みたものの十分に回れなかったり、コロナ禍やラリーの都合で行けなかった地域でもある。念願の東北旅をするにあたり、今回の主題である奥州街道を学んだ。

 

そもそも、街道とは国家統治の手段である。

飛鳥時代、日本は中央集権国家の実現を目指し、唐から律令制度を輸入した。律令制は天皇が土地と人民を所有する制度である。このとき、朝廷は日本の土地を畿内とそれ以外に分け、五畿七道と呼ばれる行政区分を設定した。例えば、畿内から東の海沿いにある国々を東海道と呼び、畿内から東の山間にある国々は東山道という具合に。この頃、道とは国と道路のどちらも意味する言葉であった。国の統治と道の整備は同義なのである。東山道のうち、白河の関よりも北の国は道奥(みちのおく)と呼ばれ、陸奥(みちのく、むつ)と転じた。京都から果てしなく遠い国だから道の奥というわけだ。

しかし、日本では官僚の育成が整わなかったため、豪族の世襲によって地方は統治された。また、律令制の運用ミスによって墾田永年私財法を発布し、土地の私有を認めたために、天皇の所有ではない土地が生じてしまった。この土地の掌握を乱用した藤原家により律令制が腐敗し、律令制の軍事機能である武士によって土地の争奪が生じた。こうして律令制は崩壊し封建制へ、そして豊臣秀吉による刀狩まで続く戦乱へと移った。

江戸時代、徳川家康は織田家・豊臣家の反省から、徳川家と家臣の主従関係の明示を軸に日本を整備した。参勤交代もその一環である。参勤交代は、大名が将軍を訪ね、従属を確認する場だったのだ。家康は、徳川家の発信が全国に行き渡って統治し権威を示すための手段として、通信と物流の確保に重点を置き、街道を整備した。その中でも大名行列が通る江戸への主要な街道を、東海道、中山道、奥州道中、日光道中、甲州道中と設定し、幕府直轄の五街道とした。街道は変わらず国家統治の手段だったのだ。

奥州道中は、起点を京都から江戸に移した東山道であり、従来の東山道の大部分は中山道として再編された。奥州街道は、江戸時代以前より江戸から北上して東山道へ結ぶ道であったが、日光道中の設定にあたり重複するために区間が短縮されている。また、奥州街道をめぐる区別は時代によって様々であり複雑である。奥州街道や奥州道中、奥道中などキリがない。道中と呼ばれるのは、海沿い(海道)ではなく内陸(国の中)を通るためである。五街道設定当初の概要としては以下になる。

広義の奥州街道:日本橋~三厩港
広義の奥州道中:日本橋~白河宿
狭義の奥州道中:宇都宮宿~白河宿
狭義の奥州街道:白河宿~青森宿
別名の奥州街道:白河宿~仙台城下(陸羽街道、仙台道)
        仙台城下・青森宿~三厩港(奥道中、松前道)

煩雑なため、本稿では日本橋~三厩港を奥州街道と呼ぶ。都から離れる一方の果てしない長さだからこそ、地域ごとに名前が変わってきたのだろう。それだけ奥の道なのだ。

 

 

 

❏ 装備

自転車    : GIOS Vecchio
タイヤ    : Panaracer PASELA 700×25C
サイコン   : CATEYE CC-RD300W
ナビゲーター : Garmin eTrex20x
ナビマウント : REC-MOUNTS Type19 Edge Mount
スマホマウント: QUADLOCK Out Front Mount Pro
ハンドルミラー: 富士彫刻 FBM-0010
ハンドルバー : KCNC Brevet Mount
バッグステー : ADEPT Road Rear Rack

フロントライト: CATEYE VOLT800
テールライト : Bianchi Compact Light C
フロントバッグ: KLICKfix RIXEL&KAUL Front Bag
パニアバッグ : ROCKBROS SKU:AS-003-1

 

自転車はクロモリにダブルレバーのスポルティーフ。今回は、2020年8月挑戦の本州横断紀行 ALPS500 に増してフル積載であり、純正タイヤ 700×23C満載時のタイヤへの負荷が高い。奥州街道には往年の未舗装路が残されているので、パンク対策にタイヤを太くしたい。グラベルロード用のタイヤは最も走破性能に優れるが、大半を走る舗装路で転がり抵抗が増えるために今回の旅程には適さない。純正タイヤにも細かい溝はあり、未舗装路の走破性も23Cで確認できているため、転がり抵抗と耐パンク性の両立を狙った700×25Cとした。

 

現代の奥州街道は、国道4号にあたる。今回その旧道を巡るには国道4号から外れるため、ナビゲーションが必要だ。短距離であればスマホを使えばよいが、真夏の炎天下であるため、スマホが過熱してカメラや決済を行えない可能性が考えられる。そのため、スマホに頼らないナビゲーションが必要だ。

ひとつは、ツーリングマップルだ。これは最もアナログで、コピーしてフロントバッグに収納すれば携行もしやすくなる。しかし、雨の日は濡れてしまう。致命的だ。

次の案としては、コマ図だ。A5サイズに36コマ入れればA5 1面で2日程度まかなえる。進路も正確なのでいちいち地図を確認しなくてもいい。一方で、サイクルコンピュータは距離を修正できないため、ミスコースしたり寄り道して復帰する際に正しい距離に戻せない。スマホでラリーコンピュータアプリを使っては当初の問題に戻ってしまう。なので、コマ図案も採用できない。

 

そこで、登山用GPSでナビゲーションする案を採用した。所有する端末のGarmin eTrex20xにGPXデータを入れ、常に表示する方法だ。有志がマウントを3Dプリントで自作しており取付も可能だ。注意点としては、GPXデータ中の経由点数を10000以内に収めることだ。150km程度で10000を迎えるため、直線に近似して経由点を間引くなどの工夫が必要だ。参考までに、私は以下の手順で作成した。

・Google Mapでルートを作成する
GPX変換サイトでGPXデータを作成する
・Garmin Base CampでGPXデータを間引き、全行程を1データにする
・端末にエクスポートする

ハンドルまわりは装備を中央部に集め、ハンドル操作が重くならないようにした。デバイスをひとつにまとめるならばGarmin Edge 1050が便利だが、12万円する代物。私が展開しているサイクリングラリー TRIAL CYCLEの試走でスマホが必要なため、この旅だけのためにEdgeに置き換えるほどの動機にはならず、既存の装備で賄った。

 

積載

フロントバッグ: カメラ、財布、熊鈴、熊笛
バックパック : 雨具、日焼け止め、筆記具、熊スプレー
パニアバッグ : 輪行袋、ポンプ、衣類、常備薬、充電

取り出す頻度の高いものをフロントバッグに、身体に関わるものをバックパックに、取り出す頻度が低いものをパニアバッグにそれぞれ収めた。

 

輪行

自転車は、すっぽり入る大きな袋に収めれば鉄道に載せてよい。これを輪行という。輪行は旅のおいしいところだけを走れ、前後の移動を休憩できる素晴らしい手段だ。

鉄道に持ち込んでよい荷物は、三辺和250cm以内かつ30kg以内のものを2点まで。三辺和160cm~250cmのものは特大荷物と呼ばれ、各車最後部かデッキの専用スペースに収める必要がある。できれば、輪行袋とパニアバッグに分けて、特大荷物スペースと特大荷物コーナーを使いたい。JR東海に問合せた結果、「一人で特大荷物スペースと特大荷物コーナーは併用できない」「2点の特大荷物にならないように小分けしてほしい」という回答だった。パニアバッグは特大荷物ではないが、そのままでは荷物棚の寸法に収まらないので、パニアステーへの取付を変えて荷物棚に収まるようにした。名古屋始発の臨時のぞみ号に乗り、できる限り迷惑にならないよう心がける。

手回り品:JR東日本

 

本編

DAY-1 7/14

日本橋→小山宿

初日は日本橋から栃木県小山市を目指す。通勤時間帯の都心が要注意だ。

 

09:00 東京駅

 

09:19 日本橋

五街道の起点は日本橋。ならば、みちのくを知る旅はここから始めよう。

旅立ちの橋に佇み 移ろいの調べを紡がん みちのくの果て

 

現代の奥州街道は国道4号にあたるが、現道は街の発展に合わせて一部の経路が変更されている。旧道は街に埋もれてしまうのだが、探してみると石碑や道標が残されていたりする。これは日本橋を出て最初に出会う日光街道の石碑だ。配送業者で溢れる平日朝には誰の目にも留まらないが、400年前の伝道師がここにいる。

 

奥州街道は浅草寺の正面に来る。寺社仏閣はアクセスできなければ意味がないため、街道は古い寺院や神社の前を通るようになっている。この先も立派な構えの寺社仏閣の前を幾度も通ったが、その度にこの道が確かに街道であったことを想起させてくれた。

 

10:30 千住宿

宿場町には、旅人の労いに甘味があることがしばしばある。奥州街道で最初の宿場町、千住宿にもあった。おばあさんが団子を買っていて、あまりにおいしそうで話しかけた。昭和創業で奥州街道とは関係ないそうだが、この町で一番おいしいと。朝イチの団子で大変おいしかった。後から知ったが食べログ和菓子百名店だった。納得のうまさ。北千住駅から徒歩圏内なので、機会ある方はご賞味あれ。

かどや(槍かけだんご)

 

11:40 草加宿

草加宿で雨宿り。この日は台風が東日本沿岸を北上し、関東は強風域に入っていた。雨脚が強まる時に草加宿に入ったので、土産屋で居座らせていただいた。草加せんべいはクラシカルなせんべいで、硬すぎもせず柔らかくもなく、おいしかった。

 

街道には松並木が植えられていることが多い。並木には、沿って歩けば迷わない道標の役割があった。奥州街道で最初に登場する松並木が草加宿の北にある。みちのくの松並木はどんな景色か、期待を膨らませるひと時。

 

幸手宿と栗橋宿の間に筑波道追分の道標があった。筑波山は山岳信仰の拠点であり、参詣道が整備されていた。ひとつは水戸街道の土浦から分岐する道、もう一つが奥州街道の幸手から分岐する道。こちらは後者にあたる。

 

16:00 栗橋宿

ストップアンドゴーを繰り返す街から脇道に逸れた頃、栗橋に来た。ここでは利根川を渡る。奥州街道では1869年(明治2年)まで栗橋に関所があった。栗橋から銚子まで100km以上あると思うが、すでにこの川幅、さすがの大河だ。

 

栗橋で東北本線と交差する。踏切名が日光街道で、スケールの大きな名付け方に驚いた。ここは日光街道と東北本線の唯一交差する踏切である。東北本線の元は日本鉄道奥州線で、1885年(明治18年)には上野~宇都宮で開業した。ほんの15年前まで関所あったと思うと、時代の激動がうかがえる。

 

17:30 小山宿

この日の宿泊地、栃木県小山市に着いた。小山には須賀神社があり、小山評定が行われた場所とされている。

豊臣秀吉は、臨終前に家臣に管轄国を割り振り、統括を引き継いだ。秀吉の遺児 秀頼は当時5歳であり、全権委譲は非現実的だからだ。徳川家康は東国担当だが、家臣の派閥争いが生じた。そして、東国の中でも家康に服従せず秀頼に寝返る家臣も現れた。それが会津であり、家康は会津討伐に出た。ところが、その道中で、家康は石田三成の挙兵を知る。会津へ行くか近江へ行くか。その会議が小山評定だ。その判断の是非は、歴史が語る。

小山評定が行われた場所は小山市役所になり、現代も街の未来を担う場所になっている。

 

小山の東横インに投宿し、DAY-1終了。日中のうちに終えられてよかった。今日は順調に走れたが、明朝の脚の疲れ具合は確認しておこう。

 

DAY-1 走行記録 
雨のち晴れ 31℃/23℃

走行距離 : 84.94km
所要時間 : 8:22:30
走行時間 : 4:58:06
平均速度 : 10.1km/h
表定速度 : 17.1km/h
獲得標高差: 1,001,5m

DAY-1 総合記録
走行距離 : 84.94km
所要時間 : 8:22:30
走行時間 : 4:58:06
平均速度 : 10.1km/h
表定速度 : 17.1km/h
獲得標高差: 1,001,5m

 

 

DAY-2 7/15

小山宿→宇都宮宿

2日目は、宇都宮宿へ経て日光へ向かう。早くも奥州街道を離れるが、日光は旅路の理解を深めるためにも重要な場所である。

 

日光。

東照宮こそ有名だが、二荒山神社と輪王寺による男体山の山岳信仰への拠点として、東照宮ができる前から栄えてきた。日光の名は、二荒山神社(ふたらさん)から「ふたら」→「にこう」→「日光」と転じて生まれた。仏教が国家運営のツールとして輸入された経緯から、寺院を治めることは政治的に重要であった。源頼朝をはじめとする寄進によって権威が拡大し、日光は山岳信仰の域を超えた地方平定に不可欠な宗教都市となった。

こうした背景から、日光道中は日光参詣を目的に整備された街道である。江戸時代の庶民は外出を制限されていたが、日光参詣は認められており、物見遊山の旅人で多くの往来があったようだ。また、徳川家康は、日光の僧侶らの助言を踏まえ以下の遺言を残した。

・遺体は駿河の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎたら下野の日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀る
・西国諸大名を心もとなく思うので、我像を西向きに立ち置く

この遺言をもとに家康は、日本の左側から全国を見守るべく朝廷より東照大権現と下賜され、秀忠、家光によって造られた東照宮に祀られた。江戸幕府は、家康の命日に東照宮へ参詣するようになり、また朝廷にも奉幣勅使(例幣使)の派遣を要請した。このような背景から、日光参詣へは日光道中以外にも脇街道が整備されるようになった。

日光御成道  :江戸幕府の参詣で通行する道。江戸城から古河城まで城がないため付近の岩槻城を経由し日本橋から幸手宿を結ぶ。
日光壬生通り :日光参詣の脇道。日光道中よりも近道なので庶民に利用された。日光道中 小山宿から今市宿までを結ぶ。
日光例幣使街道:朝廷の例幣使が通行する道。中山道 倉賀野宿から日光壬生通り 楡木宿までを結ぶ。

繰り返しになるが、江戸幕府が意識したのは、徳川家の権威を示し主従関係を確認することであった。家康命日の日光参詣は、幕府にとって朝廷にマウントを取る場なわけである。例幣使は参詣後に江戸城の将軍を訪ねて東海道で帰洛する旅程となっていた。朝廷にとってこの派遣は屈辱的と捉えられ、街道での例幣使は横暴だったという。それでもこの慣習は大政奉還まで続いたので、幕府の目的は果たせていたといえるだろう。

こうして江戸幕府が重視していた日光は、奥州街道へ直接の影響を与えてはいないが、奥州街道の周縁を知る上で欠かせないのだ。

 

07:45 小山宿

小山宿の北に、日光壬生通りの追分がある。道標には日光ではなく男体山と書かれ、信仰の興隆を感じ取れる。

 

09:30 宇都宮宿

奥州街道と日光街道の追分が宇都宮宿の本陣前にある。左奥へ向かうのが奥州街道で、左側へ向かうのが日光街道だ。本陣は、看板あたりにあったとされる。
順調に宇都宮まで来たが、ここで大雨に遭う。和菓子屋で雨宿りさせていただいた。今日は宇都宮に泊まるので行程の目標は達成できているが、これから日光へ向かう。

 

11:00 二荒山神社

二荒山神社は宇都宮にある下野国一宮である。「いちのみや」→「うつのみや」と転じたとされる。日光の二荒山神社「ふたらさん」とは異なり、宇都宮の二荒山神社は「ふたあらやま」と読む。ややこしいが、この二つの神社に関わりはない。

 

12:30 大谷寺

宇都宮の西にある大谷寺。空海が岩に掘った観音像が荘厳である。心を見透かすような目が印象的だった。

 

日光街道には杉並木がある。相模藩の松平氏が家康への忠義で16,500本植樹した。その距離は、日光街道・日光例幣使街道・会津西街道併せて35.4kmで、世界最長並木道としてギネス記録になっている。

雨も相まって夜のような暗さの中、東照宮まで上り坂が延々と続いていく。厳しい。だが、400年前から数多の旅人が行き交ってきた。そう思うとまだ踏める気がした。

未舗装区間は締まった土で良好な路面。これほど圧倒的な並木道は珍しいので、今市から日光まであえて歩いて参詣するのも一興だろう。

 

16:00 日光東照宮

2021年に日本縦断グランツーリスモ 宗谷縦走で訪れたときは雨だった。今回もまた雨である。加えて、雨の中走り続けたために靴下がひどく濡れている。さすがに社殿の中へこのまま行くのは申し訳ないので、またの機会としよう。雨でもこれだけ輝いているのだから、晴れたらなおのことまばゆいのだろう。

 

 

17:00 日光駅

日光から宇都宮へは輪行で戻る。

江戸時代、日光参詣は江戸から行きやすい物見遊山で賑わった。明治になり日光にも鉄道が来て参詣を支えた。当時は日本鉄道(のちに国鉄)のみだったが、昭和になり東武鉄道も開通した。シェア争いは東武特急が制し、国鉄は東北新幹線開業を機に普通列車に絞った。これだけ立派な駅舎だが、今は1時間に1本の普通のみ。線路の線形は幹線並に良く、かつての気概は今でも味わえる。

JR日光駅の東照宮側のすぐ隣に東武日光駅もある。こちらは東武浅草駅・JR新宿駅から特急が多数運転され、今も観光需要の中心だ。次は鉄道で来たい。

 

20:00 宇都宮駅

宇都宮駅前の東横インに投宿し、宇都宮にいる友人と餃子。麻辣餃子が美味。名物を食べられてよかった。米と肉が人を救う。今日は脚を使ったものの、踏み足も引き足もバランスよく使ったので酷い筋肉痛にはならないだろう。

 

DAY-2 走行記録
雨 26℃/22℃

走行距離 : 81.84km
所要時間 : 9:20:30
走行時間 : 5:01:04
平均速度 : 8.8km/h
表定速度 : 16.3km/h
獲得標高差: 1,486.4m

DAY-2 総合記録
走行距離 : 166.78km
所要時間 : 17:44:30
走行時間 : 9:59:10
平均速度 : 9.4km/h
表定速度 : 16.7km/h
獲得標高差: 2,487.9m

 

DAY-3 7/16

宇都宮宿→白河宿

3日目は、福島県白河市へ向かう。みちのくの玄関口、白河の関を越える。

 

白河の関。

下野国と陸奥国を隔てる関所だ。誰もが一度は耳にしたことがあるが、実は白河の関は東山道にあるものであり、奥州街道にはない。少し東山道について触れてみよう。

冒頭の通り、東山道は京都から東向きに山中を通り陸奥国へ至る道である。令制国の各国には行政機関の国府と統治機関の国分寺が設けられ、五畿七道では国府を通る道が引かれている。東山道では、大津・大垣・上田・前橋・栃木と国府を経て白河の関へ向かう。江戸時代の街道を東山道と比較すると、碓氷峠から中山道・日光例幣使街道・奥州街道のルートが近い。宇都宮以降で細かい違いに着目すると、喜連川より先で一つ西の峠に向けて道が伸びている。こうした東山道との経路の違いは、江戸時代になって生じたわけではなく、鎌倉時代には奥大道として存在したようだ。

白河の関は、東山道が使用された平安時代までの関所である。奥州街道の成り立ちに関わる場所として、ぜひとも訪れたい。

 

06:30 白沢宿

どうしても昼に食べたいお店があり、5:30に出発した。白沢宿では水車が回っていた。動力源に用いられてはいないが、当時の面影が伝わる。脇街道ではあまり保存されないので、五街道ならではの景色とも言えよう。

 

07:15 氏家宿

栗橋で見かけて以来の東北本線の踏切。旧奥州街道と贅沢に名付けている。この先も奥州街道との踏切はあるはずだが、一意に定まらない名前にしてよかったのだろうか。

 

氏家宿にある馬頭観音の石碑。街道では度々見かけるが、当時は馬の守護仏として信仰された。本来は人を悟らせる存在である菩薩の一種である。氏家宿では特に保存されているものはなく、道の狭さが街道を物語っていた。

 

氏家宿から喜連川宿へ行く間、奥州街道の旧道が現れた。土砂崩れが度々起こり、新道が開削されている。旧道は藪漕ぎで、踏み跡がなく、人通りはなさそうだ。この先の旧道も藪漕ぎをするのだろうか。

 

藪漕ぎでゴミがついたのか、ブレーキでホイールを削る音がし始めた。佐久山宿手前のコンビニで整備することにした。また、リアキャリアのステーの形がおかしく、後輪がまっすぐ取り付いていないことにも気づいた。キャリアに曲げ加工が必要だが、板金作業する工具は持っていない。試行錯誤してグレーチングを使えば曲げられた。組み上げるうちに大雨になった。問題なく取り付いたので、雨宿りして出発した。ペースよく走れていたのが救いだった。

 

11:00 越堀宿

越堀宿では明瞭な桝形が残っていた。桝形は、道がゆるくS字に曲がっていることを指し、宿場町の広さを推測させにくくする防犯上の工夫である。一直線の宿場町は少なく、多くは桝形や弓形、曲がり角を設けて見通せないようにしている。道を作るときからこの工夫があったのだから、知恵に驚かされる。

 

11:45 芦野宿 丁子屋

栃木県那須町にある創業380年のうなぎ屋。江戸時代から奥州街道を見届けている老舗だ。食事処で当時から続いているのは珍しく、当時の旅人の食事を味わってみたかった。水曜昼でありながら、12時になると遠方ナンバーの車が次々と来た。仕入れ量のためか、すぐに満席となり予約客のみの受付となった。幸運だ。

 

2尾をいただく上御膳。蒸してから焼く関東焼きのうなぎを食べるのは初めて。うなぎの味にクリーミーさが加わり、口当たりも味わいも柔らかい。大変おいしく、精力がついた。

丁子屋 (ちょうじや) | 食べログ

 

芦野宿の近くにある遊行柳は、新古今和歌集に収録された和歌や、松尾芭蕉が詠んだ柳として史跡になっている。里山の景色に癒され時間を忘れるが、芭蕉の句はどう読んだのだろうか。

田一枚 植えて立ち去る 柳かな

芭蕉もまた、同じときを過ごしたようだ。

 

14:15 白河の関

奥州街道から東山道へ谷を移る。思いのほか開けている。碓氷関のように狭いと思っていた。

 

ここが東山道の白河の関。江戸時代に白河藩主の調査により白河神社の場所が白河の関と特定された。中には社殿の他に空豪があるが、江戸時代の時点で遺構はなかったとされる。江戸時代には調査されたことに驚きつつ、それだけこの歌枕が憧れを与える響きであったことに、同じ心を持つ喜びを覚えた。

これより、みちのく。果てまで同じ国だ。

 

奥州街道に戻って峠へ。境の明神という国境を挟んで神社が2ヶ所隣接している。奥州街道の関所は栗橋なので、この峠での取り締まりはない。

 

15:45 白河宿

ついに福島県だ。白河宿は大きく、3.5kmに渡って宿場町・城下町が続く。町割りの境で桝形や弓形があり、入り組んだ形をしているのが特徴だ。宿場町の史跡では脇本陣があるが、他は民家・商店が立ち並ぶ。

白河駅周辺にはビジネスホテルが少なかったので、新白河駅前の東横インに宿泊した。福島県に入ってからというもの、急に訛りが強くなった。遠くへ来た実感が湧いてきたが、この先聞き取れるか不安も感じた。

そして脚である。だんだんと太ももの疲労が蓄積し、歩きにくくなってきた。コンビニで買えるユンケルで疲れが減るか試してみよう。

 

DAY-3 走行記録
曇のち雨 27℃/23℃

走行距離 : 96.40km
所要時間 : 10:44:30
走行時間 : 5:23:10
平均速度 : 9.0km/h
表定速度 : 17.9km/h
獲得標高差: 1,786.2m

DAY-3 総合記録
走行距離 : 263.18km
所要時間 : 28:29:00
走行時間 : 15:22:20
平均速度 : 9.2km/h
表定速度 : 17.1km/h
獲得標高差: 4,274.1m

 

DAY-4 7/17

白河宿→郡山宿

4日目は、いよいよみちのくを北上する。今日は、白河宿から郡山を経て会津若松を目指し、郡山に泊まる。今日の見所は、奥州街道で起こった日本の革命だ。前置きが大変長く申し訳ないが、日本史専攻ではなかった私が理解できるように揺れ動く幕末をかいつまむだけでもこの長さになる。適宜読み飛ばしていただきたい。

 

幕末。

庶民を取り巻く経済は、それまでの自給自足から商品サービスによる貨幣経済へと発展していた。その恩恵を搾取された商人は幕府に不満を募らせ、幕府は改革を試みたが失敗した。一方で、水戸藩や土佐藩、薩摩藩などの一部の藩は改革に成功する。これらには関ヶ原で敗戦した毛利家のいる長州藩も含まれ、徳川家に対して因縁を持つ藩が力をつけて、幕府の統制が効かなくなる構図が生まれつつあった。

こうした最中、黒船が来た。当時の欧米では産業革命を経た植民地時代。独立直後のアメリカは、燃料に重用される鯨油獲得のために、捕鯨船をユーラシア大陸沿いに太平洋へ航海させていた。この捕鯨船の補給地が太平洋沿岸に必要になるが、中国はアヘン戦争に負けてイギリスの支配下にあり、アメリカにとって融通を利かせにくい環境にあった。そのため、アメリカは太平洋横断を考え、補給地に日本を選んだ。

幕府も呆然としていたわけではない。オランダから世界情勢を収集していた幕府は、欧米の軍事力や黒船襲来の可能性も把握していた。実際に来航した未曾有の事態に際し、幕府は従来の一義的な発信ではなく朝廷や各藩と合意形成を取って開国しようとする。しかし、合意形成は得られなかった上に、これを機に朝廷や各藩には政治への関心が芽生えてしまい、幕府との主従関係が崩れ始めてしまった。

このとき、幕府は軍事力差から開国せざるを得ないと考えた。朝廷や雄藩では海外の実態を知らないゆえ、外国人を排斥して鎖国を継続する攘夷論が中心となった。また、江戸時代中期から隆興した、仏教伝来以前の日本文化を追究する国学による尊王論と結びついた尊王攘夷論が誕生し、鎖国派の雄藩と開国派の幕府の対立が明らかになる。結局、幕府は天皇の承諾を得られないまま開国をし、弾圧を加えればテロを受けるなど、権威を失墜させていった。ここから幕府は、朝廷を活かして権威を回復させようと試みる。

一方で、長州藩は過激な尊王攘夷論を掲げて京都でロビー活動し、倒幕を目指した。しかし、天皇は倒幕を求めておらず、既存体系を維持しながら天皇の地位回復を望んだまでであった。その思惑を汲んだ薩摩藩や京都守護職の会津藩によって、長州藩は朝敵とされ京都から追放されてしまった。その中で、長州藩は外国船を攻撃し、薩摩藩も同時期に外国船と戦闘するが、両藩は軍事力差から開国せざるを得ないと考えを改めていく。ここから、開国議論を抜きにした、雄藩と幕府の対立に移り変わっていった。

幕府は主導権を握りに行く。朝廷もますます政治に参与していく。幕府は土佐藩の進言をもとに大政奉還をし、形式上の政権を朝廷に渡した。だが朝廷もいきなり政治を動かせないため、暫定的に幕府に継続させる。有名無実化を危惧した雄藩は朝廷に働きかけ、王政復古の大号令を挙げて新政府を発足させる。それでも幕府は政権を譲らない。

武力で倒幕するしかないと踏んだ雄藩は、長州藩の朝敵解除も相まって、薩摩藩を中心に江戸を荒らして幕府を挑発した。これに応じるように幕府は江戸守護職の庄内藩をはじめとする幕府軍を率いて攻撃を始める。そして雄藩は新政府軍を結成し、朝廷より官軍のお墨付きをもらい応戦する。新政府軍と旧幕府軍による政権争い、戊辰戦争の始まりだ。

 

幕府は外来の強敵を想定しない封建社会の構造の問題に巻き込まれてしまった。アメリカに戦意はなかったとはいえ、アヘン戦争の顛末を知っていた幕府は日本のために精一杯頑張ったと思う。

今日は、戊辰戦争の舞台を巡る。

 

07:15 白河宿

新政府軍は西日本全体を戦力とし、東征を始める。新政府軍は京都から東海道・中山道・北陸道を進み各地を制圧していく。中山道に至っては東山道軍と呼び、徳川家による街道整備を否定する徹底ぶりだ。対する旧幕府軍は、守護職の会津藩・庄内藩をはじめとする東北地方の連合を組んで応戦する。その大きな戦場がこの白河だ。

新政府軍は旧幕府軍と同等の装備なものの兵数に劣る中で、周到な作戦と優れた統率で白河を突破する。新政府軍は、奥州街道を進むおとり部隊と左右の山に分隊させ、奥州街道沿いの稲荷山を砲撃する。旧幕府軍はこれを本隊と思い稲荷山へ戦力を集中させる。その隙に左右の山に散っていた分隊が白河城を奪取。ここから新政府軍は会津へ向かう。

ここは、その稲荷山だ。戦没者の墓標が立ち並ぶ。合掌。

 

08:15 踏瀬宿

奥州街道の松並木を見るのは草加宿以来だ。両側に国道4号と東北道が通っているにも関わらず、その喧騒を感じさせないほど閑散としている。

脚の疲労でしゃがみこんでいると、道路工事のおじさんが声をかけてきた。

「%$◆※?」「?」「腹痛くないか?」「大丈夫です」

聞き取りは大丈夫じゃない。

 

09:10 須賀川一里塚

街道には一里塚がある。須賀川では良好な状態で保存されていた。本来は並木に沿って水平に道が伸びていたが、国道118号バイパスへの接続で掘られている。

 

11:00 郡山駅

今日は郡山で宿泊するが、戊辰戦争を追って会津へ向かう。

 

14:00 猪苗代湖

日本百名山 磐梯山。2018年の訪問では山頂が見えなかったが、今回は粘り勝ち。綺麗な山体だ。

 

白虎隊。戊辰戦争勃発にあたり、会津藩の若者で構成された部隊だ。猪苗代湖の西側で白虎隊は新政府軍と対峙する。しかし、あまりの戦力差に白虎隊は敗走した。

 

15:00 飯盛山

会津若松への極上ダウンヒルを楽しんで至るは飯盛山正宗寺。ここにはさざえ堂と呼ばれるお堂がある。上り3周下り3周して出ると三十三観音参りを果たすチートコーナーだ。

正宗寺は、厳島神社と境内を共有する神仏習合であったが、廃仏毀釈で廃寺となっている。この境内の奥には、白虎隊自刃の地がある。敗走した白虎隊がこの地に来たとき、鶴ヶ城が黒煙に包まれていた。白虎隊は激論の末、潔く死ぬのが武士の務めと自刃した。十分な戦力も武器もないままに散った彼らに成す術はなかっただろう。時代の揺れに呑まれた青年たちを偲び、彼らの命が無駄ではなかったことを切に願いたい。合掌。

明くる世の 息吹に舞わん 鶴の羽

 

16:00 鶴ヶ城

鶴ヶ城は堀内を走ることができる。

会津藩は新政府軍に降伏した。しかし、会津藩は戊辰戦争の最中、軍事援助を得るために管轄していた蝦夷地の一部をプロイセンに売却する契約を結んでいた。明治政府はこれを阻止すべく、会津藩を解体させ、契約主体者がいないため無効とする交渉に出た。結果的に交渉は成立したが、同時に会津藩も解体している。したがって、会津には明治政府の方針がよく反映されており、寺院が少なく、城も解体されている。この鶴ヶ城は昭和に復元されたものであるが、石垣などは当時のもの。中を走れるのは興味深い体験だった。ちなみに、戊辰戦争を経て薩長を指した西南に対比して、奥羽越列藩同盟を東北と呼び、東北地方が生まれたそうだ。

 

17:00 会津若松駅

会津若松から郡山へ快速あいづ号で輪行。2両編成のうち1/4ブロックだけ指定席がある。特急が走っていた頃を彷彿とさせる快走ぶり。線路規格が幹線ではないため、豪快に跳ねながら駅弁を食べた。

張っている。張り続けている。太ももが。ユンケルで疲れは減ることはわかった。が、若干の筋肉痛は続いている。今日もコンビニで買えるユンケルを飲みつつ、明日は無理のないように走りたい。

DAY-4 走行記録
曇 30℃/22℃

走行距離 : 81.08km
所要時間 : 9:18:00
走行時間 : 4:12:18
平均速度 : 8.7km/h
表定速度 : 19.3km/h
獲得標高差: 1,240.2m

DAY-4 総合記録
走行距離 : 344.26km
所要時間 : 37:47:00
走行時間 : 19:34:38
平均速度 : 9.1km/h
表定速度 : 17.6km/h
獲得標高差: 5,514.3m

 

DAY-5 7/18

郡山宿→仙台宿

5日目はみちのく最大の街、仙台へ向かう。脚が癒えない中、旅程で最長の距離を走る。

 

07:15 二本松宿

今日から晴れだ。暑くなる前に距離を稼ぐべく、早朝から走る。二本松宿で通勤通学と重なり、小腹も空いたので休憩した。切通や二本松城を見通す小川など、印象的な景色が多かった。

 

08:00 八丁目宿

街道からたびたび山を見渡せたので、福島市の八丁目宿で脇道から山を愛でた。日本百名山の安達太良山と吾妻山である。奥州街道からは山がよく見え、この旅の前半も晴れていれば男体山や那須岳といった他の百名山も見えただろう。この先も山の眺望を期待したい。

 

08:30 清水町宿

まるで公園だが、これも奥州街道。木陰のそよ風が心地よい。

 

09:45 藤田宿

伊達に至り、桃の果樹園をよく目にする。道の駅国見では桃アイスもあった。身体に染み渡る。JAふくしまの桃ジュースが衝撃的においしく、3本飲んだ。日差しが強く気温も上がってきたのでしばらく休み、身体の芯まで冷やした。

 

11:45 斎川宿

福島県と宮城県の県境にあたる国見峠で、この旅はじめての登坂車線に苦しめられた。斎川宿で再び東北本線と交差し、踏切名を見る。なるほど、こう区別するのか。

白石を過ぎてからわずかに下り坂なせいか、32km/h巡航で走れた。積載と体力を鑑みれば速い。信号も少なく、路側帯も広いので快適に走れた。

 

14:00 岩沼宿

宮城県岩沼市にある竹駒稲荷神社。日本三大稲荷と銘打っているが、諸説ある。風鈴が並べられ、心地いい音を奏でていた。今年の米の豊作を願い、仙台へ向かった。

 

15:45 仙台東照宮

奥州街道は名取から国道4号と別れて街中をゆく。狭く気を使ったが、名取川を越えると嘘のように広くなった。

仙台にたどり着いてそのまま仙台東照宮へ。伊達政宗が亡くなった後、仙台藩には災難が続いた。その再建を支援した幕府への感謝報恩として、伊達家が仙台東照宮を建立した。上野東照宮や日光東照宮にあるような派手な金色の装飾はみられないが、立派な社殿が広がり、伊達家の威信を感じられる。

旅の半分を無事に終えられたことの感謝と、この先の安航を願った。

 

仙台では、友人であり尊敬するギタリストのまるやまたつやさんと牛タンを食べた。米と肉が人を救う。

夜の仙台をガイドしてもらい、短いながらも楽しい時間を過ごした。まるちゃんありがとうございました。

 

DAY-5 走行記録
晴れ 31℃/22℃

走行距離 : 136.60km
所要時間 : 10:42:00
走行時間 : 6:22:04
平均速度 : 12.8km/h
表定速度 : 21.5km/h
獲得標高差: 1,781.5m

DAY-5 総合記録
走行距離 : 480.86km
所要時間 : 48:29:00
走行時間 : 25:56:42
平均速度 : 9.9km/h
表定速度 : 18.5km/h
獲得標高差: 7,295.8m

 

DAY-6 7/19

仙台宿→一関宿

6日目は、岩手県一関市へ向かう。今日の見所は世界遺産の平泉だ。

 

奥州平泉。

陸奥国に住む藤原氏は、複雑な血縁関係による遺産相続をめぐり内紛を起こした。この内紛で妻子を失った藤原清衡は、妻子の供養と、争いから逃れた極楽浄土の実現を願って中尊寺を創建した。この平泉は、奥州街道に卒塔婆を並べた中間に位置するとして選ばれ、みちのくの衆生を救う象徴が期待された。この極楽浄土の体現は後に続き、内紛を生き延びた子孫により毛越寺など他の寺院も建立された。政治機関や港も平泉にまとめたことから、生活に根付く極楽浄土を平泉に構築させていった。また、奥州藤原氏は、朝廷への繰り返しの献上で信頼を得たことで朝廷の争いに影響されない、独立した自治を獲得した。こうして親子4代に渡り独自の文化が築かれた。

しかし、朝廷では派閥争いが起こる。平家が実権を握ったとき、源家の遺児 義経を奥州藤原氏は庇護した。その後、義経は平泉で育ち、そして壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼす。ところが、関東の実力者だった源頼朝の統率から外れて平家討伐を目指したために、義経も処分が迫られる。結果的に義経は自害したものの、かくまった罪を問われ奥州藤原氏も滅んだ。争いから逃れて平泉を作ったものの、争いに呑まれて滅ぶのはなんと皮肉か。かくして時代の波は無常である。

今日は、その平泉を訪れる。

 

08:00 吉岡宿

出羽街道との追分。分岐する街道が減ってきた。たびたび訪れる大きな街も減り、陸の奥に入りつつあることを実感する。

 

10:30 築館宿

仙台を過ぎてから、町の区切りが小さな峠と気づいた。坂を上ると景色が変わる。台地がその瞬間であるような。ただ、台地は高原のような広い面積を指すため、表現には適切ではない。そうか、みちのくは盆地を繋ぐのか。盆の道。みちのくとは何か、わかり始めた。

 

12:45 有壁宿

宮城県栗原市にある有壁宿。本陣が保存されている奥州街道でも数少ない宿場町だ。

 

ついに岩手県へ。県境過ぎてすぐ、不気味な名前で知られる鬼死骸停留所を見かけた。

 

14:00 厳美渓

一関の渓谷 厳美渓へ来た。水曜どうでしょう『桜前線捕獲大作戦』で来ていた場所だ。渓谷の対岸にある団子屋に注文すると、対岸から団子の入ったカゴがジップラインで届くというもの。意外に速く、ほほえましい空飛ぶ団子だ。さすがの3連休、驚くほど行列ができていた。団子は食べられないのだろうか。

 

あった。店舗に行けば普通にあった。醤油、ごま、あんこのセット、大変おいしかった。

 

14:30 達谷窟毘沙門堂

平泉にある、坂上田村麻呂を祀るお堂。大谷寺のように岩へ突き刺さっている。坂上田村麻呂が毘沙門天の化身と呼ばれ、死後は武芸の神とされたことから、毘沙門天の宿るこの場所で坂上田村麻呂を信仰している。

 

15:00 毛越寺

藤原清衡の息子が建立した寺院。庭池の中橋を経て金堂へ向かう配置だったが、討伐の過程で失われた。毛越寺では、浜や山を極楽浄土の概念に見立てた浄土庭園があり、平泉が極楽浄土の体現を目指した場所だったことがわかる。

 

16:00 中尊寺

国宝金色堂を持つ中尊寺。山門から500m上ったところに本堂がある。さらに奥にある金色堂の輝きは、形容しがたいほど凄まじい。この金色堂の中には奥州藤原氏のミイラが収容されている。迫力は京都の寺院を凌ぐのではないだろうか。見れてよかった。

一旦平泉まで来たものの、一関まで戻ってビジネスホテルに投宿した。

脚。坂をアウターローで上るかインナーセカンドで上るかを選べてきたが、インナーローしか踏めなくなってきた。太ももの中で使ってない部位を探しながらペダリングしてきたが、このままでは後半で破綻する。「お前はやれるんか?」と太ももが自分に問いかけてくるようだ。やれるかやれないかはわからないが、行くしかない。明日は本物のユンケルに頼るしかない。

 

DAY-6 走行記録
晴れ 33℃/22℃

走行距離 : 121.87km
所要時間 : 10:36:00
走行時間 : 5:53:36
平均速度 : 11.5km/h
表定速度 : 20.7km/h
獲得標高差: 1,727.5m

DAY-6 総合記録
走行距離 : 602.73km
所要時間 : 59:05:00
走行時間 : 31:51:18
平均速度 : 10.2km/h
表定速度 : 18.9km/h
獲得標高差: 9,023.3m

 

DAY-7 7/20

一関宿→盛岡宿

7日目はみちのく屈指の街 盛岡へ向かう。岩手といえばイーハトーブ。宮沢賢治の故郷 花巻へ行き、彼の足跡を学ぶ一日。

 

07:00 前沢宿

朝のモヤが美しい。この時間は過ごしやすい。清々しい時間だが、次々と貨物列車が通り抜けていく。あれは札幌行きだろうか、これは隅田川行きだろうか。いずれにせよ、今日のうちに着いてしまうのだろう。

 

10:15 イギリス海岸

北上する北上川、緩やかな上り坂が続く。花巻へ着くと、イギリス海岸と呼ばれる川岸がある。露呈している泥岩がドーバー海峡を彷彿とさせることから宮沢賢治がそう呼んだ場所だ。地質的には全く関係ないらしい。

 

11:00 宮沢賢治記念館

明治時代、文明開化の中で宮沢賢治は生きた。

宮沢賢治は、人生観を仏教に置きつつも、世の中や人間の真理を当時の学問から紐解こうとした。積極的に新しいものを吸収する様子が記録され、チェロや人工言語エスペラントの習得などの試みが展示されている。他にも、人間は交流電灯だと主張するなど、現代の科学からすれば支離滅裂な内容もある。当時は、原子や電気を発見した頃で、現代の理科で学ぶ体系まで整理されていない。彼なりの仮説を唱える積極的な姿勢が印象的だった。

一連の展示を踏まえて、晩年の『雨ニモ負ケズ』を見ると、良く生きる人生観を謙虚に利他を説く内容に昇華した、代表作にふさわしい作品に思えた。

 

併設するレストランは注文の多い料理店。無事に出てこれた。

 

15:45 盛岡宿

照りつける日差しが厳しく、コンビニで長く休憩しながら盛岡へ着いた。花巻から盛岡まで、地図を見る限りは盆地をひたすら直進しているが、実際は小刻みな上り下りがある。脚が終わる。脚の店仕舞いが甚だしい。明日から山へ入るので、なんとしても回復しなければならない。

 

米と肉が人を救う。シメは盛岡温麺。冷麺もサッパリおいしいが、今はガツンとカロリーが欲しい。今日の走りで水6Lを飲んだ。エネルギーも4,000kcal必要なので、とにかく食べて明日に備える。

私を救える場所はまだある。マツモトキヨシ、私は君に未来を託す。一番でかい湿布、一番高いユンケル。明日を救ってくれ。

 

DAY-7 走行記録
晴れ 36℃/22℃

走行距離 : 105.88km
所要時間 : 8:18:00
走行時間 : 4:57:25
平均速度 : 11.4km/h
表定速度 : 21.4km/h
獲得標高差: 1,727.5m

DAY-7 総合記録
走行距離 : 708.61km
所要時間 : 68:21:00
走行時間 : 36:48:43
平均速度 : 10.4km/h
表定速度 : 19.2km/h
獲得標高差: 10,247.7m

 

DAY-8 7/21

盛岡宿→二戸宿

8日目は、岩手県二戸市へ向かう。長らく続いた北上盆地を離れ、山へ入る。

 

08:15 渋民宿

今日は未舗装の奥州街道で峠越えをする。熊対策で明るい時間に抜けたい。

盛岡で真っ先に目にするのが岩手山。小岩井農場の背後にある日本百名山だ。盛岡からも北上川に沿って走るが、旧道はダムに沈んでいる。岩手山を愛でながら漕ぎ進める。

 

ユンケルが効いている。ユンケルスターが輝いている。なんせ1本3000円だ。明らかにペダルが回る。ここで負荷をかけて肉離れを起こしたら元も子もないので負荷はかけられないが、さすがはユンケル。イチローをスポンサーし続ける理由が確かにある。ちなみに、イチローは2番目に高いユンケルファンティーを毎日欠かさず飲んでいるそう。

 

11:00 沼宮内宿

岩手山の次に来る日本百名山は八幡平だ。八幡平は高原だがその雄大な景色が買われて選出されている。手軽に踏破できる百名山のひとつ。いつかは行ってみたい。

 

11:30 奥州街道最高地点

標高484mが最高地点。三陸まで続く山々が広がる。熊鈴ばかりでは飽きてくるので、日立の樹を流しながら登った。この木なんの木~松です。

 

14:00 浪打峠

奥州街道のハイライト、浪打峠。堆積層が露出し、かつてここが海底だったことを教えてくれる。まるで岩が激しく浸食したかのように見えることから、浪打峠と呼ばれるようになったと言われている。風流な由来だ。

心配していた熊との遭遇もなく、遭ったのはシカ1頭のみ。しかし、道中で複数の熊の糞を見かけた。それほど乾燥しておらず、比較的新しい。岩手県や青森県が公開している熊目撃情報は毎日確認していたが、一戸や二戸は該当しなかった。目撃情報に上がっていないだけで、やはり普通に熊の活動範囲内のようだ。

考えれば当たり前のことである。人口が多く、日中に人がいる街であれば目撃報告も多い。だが、山の中あるいは山に近い集落であれば報告するだろうか。隣近所への共有で十分だろう。やはり熊の目撃情報は都度人に聞くしかなさそうだ。明日は高山峠という未舗装の大きな峠越えを控えているが、迂回するのが賢明だろう。

 

浪打峠を下りればすぐ二戸。降りて休憩してから投宿した。

ユンケルスターが眩しい。湿布で痛みも和らいだ。そして宿の横はドラッグストア。明日も正念場が続く。どうしてユンケルスターを買わない旅路があろうか。いやない。白昼を輝かせてくれ。

 

DAY-8 走行記録
晴れ 32℃/22℃

走行距離 : 76.30km
所要時間 : 6:55:00
走行時間 : 4:09:29
平均速度 : 11.0km/h
表定速度 : 18.3km/h
獲得標高差: 1,795.7m

DAY-8 総合記録
走行距離 : 784.91km
所要時間 : 75:16:00
走行時間 : 40:58:12
平均速度 : 10.4km/h
表定速度 : 19.2km/h
獲得標高差: 12,043.4m

 

DAY-9 7/22

二戸宿→野辺地宿

9日目は、青森県野辺地町へ向かう。ついに海を見る。

 

09:00 蓑ヶ坂

青森県境をまたぐと始まる蓑ヶ坂。

ここへ着く直前に、サイクルコンピュータが暴走した。止まっていても105.9km/hで走り続けていることになっている。ホイール側のセンサー不良を疑い電池を抜くが止まらない。であればサイクルコンピュータの問題だ。800km計測してきたがリセットせざるを得ない。電池を再投入しても症状は変わらないので、基板の破損が考えられる。15年使ったので寿命だろう。幸い、暴走を始める距離と時刻を把握していたのでデータには影響なかった。残りはラリーコンピュータアプリで走ろう。

 

写真では、まるでメイちゃんがどんぐりを拾い進めているような平坦に見えるが、実際は激坂。押すと後輪の重さで前輪が浮くほど。ほんの短い峠だが、一瞬で水を失い、一瞬でひっつきむしに覆われた。

 

11:30 伝法寺宿

蓑ヶ坂を下りた三戸からは国道4号で迂回するが、これもまた厳しい。登坂車線が4連続で続く。もっと平坦かを想像していたが、奥羽山脈の裾野が波打つのは当然だった。やっと越えて道の駅とわだに着き、長めの休憩を摂った。地元の野菜を煮込んだカレーが素朴で沁みる。

さすがの青森、りんごまるごとバウムクーヘンにしたお菓子もあり、親と妻にそれぞれ贈った。シロップに漬かったりんごと大きく包むバウムクーヘンがよく合っておいしかった。

アップルクーヘン - 林檎がまるごと入ったバームクーヘン小向製菓&ニコケークス

 

14:00 七戸宿

七戸。キンカンCMで知られる南部縦貫鉄道の終点だ。野辺地駅から国道4号沿いに七戸駅まで結んでいた。開業当初から赤字経営で、一部で東北本線の旧線路盤を使ったために国鉄からの土地代の請求がトドメとなり廃線。当時は東北新幹線が青森まで新幹線規格で建設するか揉めていたため、七戸十和田駅接続は夢半ばに終わった。申し込めば車庫を見学でき、GWでは七戸駅構内を運転するそうだ。

 

七戸十和田駅の駅前にはイオンや道の駅など商業施設が立ち並び、町の中心を再構築したい意思が感じられる。駅の反対側には大きな松並木が保存されていた。

 

視界が開け、八甲田山を横に見て進むと、もう上り坂がない。そうか、もう山が終わるのか。

 

16:45 野辺地宿

久しぶりの海。連日坂を走り続けて、このままずっと陸地が伸びると思い込むほど海を忘れていた。果てが近づいている。

ビジネスホテル横のコインランドリーで洗濯中、16時頃に野辺地IC付近で熊出没の町内放送が流れた。まさしくその時間に走行していた。幸運としか言えない。明日は最も楽な日なので、熊に遭わないためにも遅めに出よう。

それで、脚だ。なんとか乗り切ったが、太ももが万全なわけではない。関節や筋は痛んでいないが、明日も無理はできない。今日は湿布のみに留めて、明日は軽く回して乳酸を取り除くペダリングを心掛けたい。

 

DAY-9 走行記録
晴れ 32℃/22℃

走行距離 : 92.58km
所要時間 : 9:50:00
走行時間 : 7:50:00
平均速度 : 9.4km/h
表定速度 : 11.2km/h
獲得標高差: 1,529.1m

DAY-9 総合記録
走行距離 : 877.49km
所要時間 : 85:06:00
走行時間 : 48:48:12
平均速度 : 10.3km/h
表定速度 : 18.0km/h
獲得標高差: 13,572.5m

 

DAY-10 7/23

野辺地宿→田名部宿

10日目は青森県むつ市へ向かう。日本橋から走り続けた奥州街道とは野辺地で別れ、田名部街道で北進する。

 

10:00 有戸宿

奥州街道とまるで雰囲気が違う。保存された並木ではなく、生だ。原生林の中を走っている。奥州街道はみちのくを知る盆の道だった。ここからは最果ての道だ。

 

本州最北の路線、大湊線。下北半島の付け根から中心街までを結ぶうち、南半分は陸奥湾を間近に眺められる。はやぶさ1号から乗り継げる快速しもきた号が来たので、陸奥湾らしい景色で収めた。単行快速はロマン。

 

11:45 横浜宿

道の駅よこはまで休憩。りんごジュースの品揃えが多く、4種類飲んだ。アップルサイダーもシードルに近い味わいもあり、おいしい。

 

奥に見えるは釜臥山。下北半島の主峰だ。今日はあの山の麓へ行く。まるで異国の遠さだが、20kmしか離れていない。大きく回り込む下北半島ならではの景色だ。

 

14:30 斗南藩上陸の地

戊辰戦争に敗れ解体された会津藩は、下北を下賜され斗南藩としての再生を許された。1万7千人が船旅を終えて上陸したのがこの地である。風雪の厳しいみちのくの果てでどう生きるか。無造作に置かれた会津の石が彼らの迷いを物語るようにも思える。

 

15:30 田名部宿

斗南藩の役所は恐山の本山、円通寺に設けられた。武士の家は町はずれに作られたが、風雪に耐えられずしばしば壊れたそうだ。家は壊れ、作物は育たず、土着民ともうまく付き合えない。厳しい環境で未来を見出せなかったことは想像に難くない。結局、廃藩置県で武士の意義をなくしたので出稼ぎや帰郷する平民が多く、上陸した1万7千人は4年のうちに3千人しか残らなかった。

家康に狙われ、新政府軍に討たれ、みちのくに砕かれる。会津は時代に翻弄され続けてきたのかもしれない。

 

米と肉が人を救う。血肉になって明日を乗り切らせてくれ。

明日は最後のひと絞り。ユンケルスターの力も借りて最果てを目指そう。

 

DAY-10 走行記録
晴れ 32℃/25℃

走行距離 : 62.82km
所要時間 : 5:46:00
走行時間 : 3:51:00
平均速度 : 10.9km/h
表定速度 : 16.3km/h
獲得標高差: 661.9m

DAY-10 総合記録
走行距離 : 940.31km
所要時間 : 90:52:00
走行時間 : 52:39:12
平均速度 : 10.3km/h
表定速度 : 17.9km/h
獲得標高差: 14,234.4m

 

DAY-11 7/24

田名部宿→大間崎

11日目は、恐山を登って本州最北端 大間崎へ。みちのくの果てだ。

 

田名部宿から恐山へは14kmあるが、そのうち10km300mUPの坂がある。平均3%とみれば登れそうだが、実際の勾配分布は極端だ。8%、11%とざらに出てくる。その都度無理せず太ももの故障を懸念して押し歩くが、別のリスクもあった。

熊だ。恐山山地は熊の住み着くところで、恐山の入口から熊の注意喚起が飛び交う。進路全体に聞こえるように、数分ごとに熊笛を鳴らして進む。谷風で木々がそよぐ中、脚を労わるように歩く。ピタリと風が止むと、横の深い草むらの向こうから、低い唸り声が聞こえてきた。鹿か?猿か?どちらも違う。

熊か?

15mだろう。自転車を押しながらも、熊スプレーに手をかけ、後ろを見ながら進む。坂よ終わってくれ。車よ通ってくれ。だが坂は続き、車は来ない。漕げる勾配になったところで、私は精一杯ペダルを踏み抜いた。明日など知らない。いま生きるのだ。必死に漕いだ。

 

熊から離れ、峠を越え、霊場の入口へ来た。カルデラの中が霊場なので、この先は下る。積載の多い自転車のダウンヒルは、バイクの感覚に近い。ワインディングを楽しんだ。

 

10:00 恐山

恐山へは三途の川を渡る。なぜ恐山と言うのだろうか。

恐山のある下北半島の北部は、入江・湾を意味するアイヌ語「ウショロ」から宇曽利と呼ばれた。なぜアイヌ語か。平安時代初期に坂上田村麻呂によって征伐されるまで、宮城県中部以北は蝦夷と呼ばれ、ヤマト王権とは異なる国とされた。これは、東山道が多賀城を終点にしたことにも表れている。蝦夷はアイヌ民族の国なので、地名の由来がアイヌ語になっているところも多い。宇曽利も蝦夷の名残なのだ。宇曽利にある山、宇曽利山が転じて恐山になり、現在に至る。ちなみに、恐山という山はなく、カルデラ湖 宇曽利湖を囲む外輪山を総称して恐山という。

恐山には火山ガスが漂い、植物が少ない。これを地獄と合わせた山岳信仰が興った。人は死ぬとお山へ行くという恐山信仰から、恐山は死者に会える場所といわれてきた。三途の川の向こうは、死者の世界。どんな世界だろう。

 

 

硫化水素の臭いが漂う。石が墓に見立てられ、積み石の山が点在している。絵巻の地獄絵のようなおどろおどろしさを感じる。積み石に添えられた10円玉はひどく酸化し、藍色になっていた。温泉街にある地獄めぐりとは一線を画す、実感のある光景だった。

恐山を離れるには、もう一度峠を越えなければならないが、一ヶ所だけ下り続きの道がある。そこは林道だが、衛星写真を見えるところは舗装路だった。入口へ行くと早速未舗装な上に、ゲートが設けられていた。土砂崩れがあるのだろう。仕方なく峠を上りにいく。走っては歩いてを繰り返して峠へ着き、一目散に下った。

海岸に出て、残るは大間へひた走るのみ。だが海風と坂が厳しい。太ももは限界だ。もう踏めない。多少姿勢が厳しくても下ハンドルを握って受風面積を下げ、アウターローで淡々とペダルを回すしかない。もう意地だ。

 

 

 

 

14:55 大間崎

本州最北端、大間崎。

胆力を出し切り、膝から崩れるように自転車に覆いかぶさった。顔を上げれば、水平線の向こうには函館山。ああ、北海道が見える。

陸がない。海がある。言葉にならない喜びが、二粒の涙を流した。

 

私は、みちのくのはてに来た。

 

 

大間崎 道果つ日方に 青を編む

 

 

DAY-11 走行記録
晴れ 33℃/23℃

走行距離 : 68.59km
所要時間 : 6:14:00
走行時間 : 4:09:00
平均速度 : 11.0km/h
表定速度 : 16.5km/h
獲得標高差: 2,140.3m

DAY-11 総合記録
走行距離 : 1,008.90km
所要時間 : 97:06:00
走行時間 : 56:48:12
平均速度 : 10.4km/h
表定速度 : 17.8km/h
獲得標高差: 16,374.7m

 

 

18:00 海峡荘

マグロが沁みた。旅館は海が見える唯一の部屋で、津軽海峡を越えた函館山へ沈む夕日が見えた。

 

DAY-12 7/25

大間崎→函館

04:50 大間崎

日の出に起き、宿を後にして岬へ行く。

 

カモメが飛び交う岬をもう一度眺める。北海道が薄く見えると、途方もない道のりを思い出させる。本当に走ってきたんだな。

 

05:30 大間港

津軽海峡を渡る。今日、愛知へ帰るが、新幹線の最寄りは新函館北斗駅なので、輪行のために函館へ行く。大間航路では自転車は壁に立てかけず、寝かせるようだ。

 

08:15 函館港

朝食を摂って休憩するうちに北に着いた。ゲートが開く瞬間はいつも高揚する。今日は函館で戊辰戦争の終結の地を巡る。

 

09:15 北海道東照宮

北海道にも東照宮がある。五稜郭築城時に五稜郭の近くに建てられたが、戊辰戦争で破壊されてしまった。再建時に山手へ移されている。

長旅を無事に終えられることを感謝した。

 

09:45 四稜郭

五稜郭の他にも、四稜郭がある。

戊辰戦争が始まり、白河や会津で戦闘が起こる傍ら、船で仙台へ北上する旧幕府軍の部隊があった。ところが仙台へ着く頃には現地の旧幕府軍は負けており、蝦夷地の開拓へ方針転換をすることになった。蝦夷地はすでに明治政府の管轄で占められていたが、旧幕府軍はこれを奪取する。

旧幕府軍は、新政府軍の襲撃に備えて五稜郭の周囲に砦を作った。四稜郭もその一つで、周囲の住民も動員して数日で急造させた。だが、新政府軍の襲撃が始まると近所にある砲台の台場がすぐに占拠され、旧幕府軍は四稜郭を放棄して五稜郭へ敗走した。

現地では砲台を置くための取付斜面が残るなど、当時の形がよくわかる。家康が築いた安泰の世が崩れていく瞬間の場所だ。

 

10:30 五稜郭

そして五稜郭。新政府軍が襲撃を始めたその日の昼には大勢が決した。旧幕府軍は翌週に降伏し、戊辰戦争は終結した。残された場所に期待して江戸から北上を続けた旧幕府軍はここで終わった。最後まで徳川家への忠義を保ちたかっただろう。今回の旅では、別軸として江戸幕府の永続を狙った街道整備と日光参詣から、白河・会津と周り、函館では東照宮から四稜郭、五稜郭と巡って終わりゆく徳川家の統治を見届けた。函館には何度か来たが、戊辰戦争を通して実感のある学びを得られた。

この後、戊辰戦争の戦没者を祀る函館護国神社にも寄った。戊辰戦争は、構造が環境に合わなくなった日本には避けられない痛みだったと思う。みな自分の正義を信じ、明るい未来を願っただろう。我々はその頃よりも良い時代を生きている。明るい未来を願って日々を生きたいと再認した。

 

五稜郭の横には六花亭がある。日本初のホワイトチョコレート量産化を果たした歴史に回帰して、ぼくの原点という新作のチョコを食べた。酸味のあるイチゴソースに柔らかく混ざるホワイトチョコレートが、雪解けのようでおいしかった。

 

函館といえばお約束の八幡坂だ。今日も摩周丸が美しい。

 

14:00 函館駅

函館駅近くのホテルの温泉で汗を流して輪行する。帰りのはやぶさ号はみちのくを飛び、2日かけた盛岡~仙台を40分で終え、12日かけた函館~東京は4時間で着いた。技術を痛感する一方で、車窓からは感じ取れないこの旅路に自信を持った。

 

DAY-12 走行記録
晴れ 31℃/21℃

走行距離 : 31.46km
所要時間 : 5:20:00
走行時間 : 4:00:00
平均速度 : 5.9km/h
表定速度 : 7.9km/h
獲得標高差: 444.4m

DAY-12 総合記録
走行距離 : 1,040.36km
所要時間 : 102:26:00
走行時間 : 60:48:12
平均速度 : 10.2km/h
表定速度 : 17.1km/h
獲得標高差: 16,819.1m

 

標高の推移をKMLデータを元にグラフにした。輪行の非連続な標高や、KMLデータと実測の距離差は無視してほしい。日光にかけて上り坂が続いたものの、それ以降は上り下りの繰り返しが顕著で、体験とも一致している。上りの獲得標高差は16,800mあり、エベレスト2回分上った。アルプス級の峠はないものの、塵積って山となる。1,000kmは伊達ではなかった。

 

日本縦断の宿題として大間を目指し、みちのくを辿る自転車旅をした。奥州街道は町の形そのままに建物が新陳代謝する宿場町が多く、等身大な景観が印象的だった。そしてみちのくを巡る歴史は、激動の瞬間を切り取る戊辰戦争に象徴された。明治に繋がる数々の出来事は遠い昔に思えず、手触りがあった。先達の未来への願いは訪ねた随所に宿り、まさしく温故知新。日本を知る確かな旅を見出したみちのくは、生涯を代表するかけがえのない道のりになった。

 

みちのくは、緑に溢れた盆の道で、海を忘れるほど遠かった。

 

 

あとがき

本州四端の到達証明書を揃えると、踏破証明書とお箸がもらえる。7年かけて踏破したそれぞれの旅を思い出す。この先に誰もいない事実が唯一無二の存在にさせてくれる最果ての旅は、どれも美しい。本土四端と併せて本州四端にもぜひ挑んでほしい。輝く旅路があるはずだ。

本州四端踏破ラリーの応募方法 - 下関市

 

旅を終えてから、岐阜県大垣市の「奥の細道むすびの地記念館」を訪ね、松尾芭蕉の足跡を追った。芭蕉は、おくのほそ道を経て不易流行を体得したという。これは、「時代や場所に拠らない本質と、景色の息づかいや言葉づかいの主観を両立させる概念」を指す。おくのほそ道の趣旨は、古人の歌枕の舞台を訪ね、時代の移ろいを観察することであった。その観察を繰り返した温故知新を、古典の面影と現実の融合の歌風に昇華できたのが、みちのくがもたらした芭蕉の極地といえよう。

そして、みちのくのはては、探訪と探究に溢れた。時間をかけた意思のある移動が旅の価値だと考えた。機械的な移動や漫然とした移動は惰性的な地図上の座標変化で、それは旅ではない。道程に意思があり、ベクトルに意志がある。その過程を丁寧に味わい、全身で理解することが、身体的な学びとなり、血肉となり、未来の糧になる。それが旅だろう。日本を駆け巡る旅を繰り返した私の極地が、みちのくのはてにはあった。

 

 

参考文献

奥州街道 歴史探訪・全宿場ガイド(伊藤孝博, 無名舎出版, 2002)
ちゃんと歩ける日光街道・奥州街道(八木牧夫, 山と渓谷社, 2018)
ちゃんと歩ける日光御成道・日光例幣使街道・日光壬生通り(八木牧夫, 山と渓谷社, 2024)
霊山と日本人(宮家 準, 講談社学術文庫, 2016)
山岳信仰(鈴木正崇, 中公新書, 2015)
夜明け前(島崎藤村, 青空文庫, 1936)
湯津上村誌(湯津上村誌編纂委員会, 湯津上村, 1979)
黒羽町誌黒羽町誌編纂委員会, 黒羽町誌, 1979)
最澄と空海 ― 悟りを開いた男達の生涯(コテンラジオ, COTEN, 2020)
あとは頼んだ!果てしなき旅路の果てに 〜遺された戒律と日本仏教の礎〜(コテンラジオ, COTEN, 2025)
キング・オブ・日本史 織田信長 〜本当のとこ、どうやったん?〜(コテンラジオ, COTEN, 2021)
俺たちの鎌倉殿!武士の世を創りし鎌倉武士の栄枯盛衰(コテンラジオ, COTEN, 2022)
豊臣秀吉と徳川家康 〜歴史を動かす信長イズムの継承〜(コテンラジオ, COTEN, 2024)
高杉晋作吉田松陰のDNSを受け継ぎし幕末風雲児(コテンラジオ, COTEN, 2020)