こんばんは。けーごです。
日記を書きます。旅でもラリーでもなんでもないのであしからず。
かつて、アイデンティティに悩みました。いくつか持論に至ったので、記します。
❏ アイデンティティってなに
アイデンティティとは。広辞苑を引くとこう示されています。
アイデンティティー【identity】
①人格における存在証明または同一性。ある人が一個の人格として時間的・空間的に一貫して存在している認識をもち、それが他者や共同体からも認められていること。自己同一性。同一性。
②ある人や組織がもっている、他者から区別される独自の性質や特徴。「企業の―を明確にする」
自己同一性。自分らしさ。自分が自分を自分と認識できること。
この言葉に出会ったのは13歳。意味不明でした。自分は自分やろと。
時は経ち23歳。就職活動で、自分が何者であるかを言語化する必要がありました。
幸いなことに、自らの人格を定義づけなくても、モデルロケット設計者・アマチュア写真家の肩書を借りれば就活は済みました。しかし、自分への問いに答えを出せないまま。
この頃から、アイデンティティを考え始めました。
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❏ 自分を自分と認識するってなに
姿や声で自分を認識できる。これはわかりやすい。鏡で自分の容姿を認識できるから。しかし、自分の身体のあらゆる部分が移植されて元の容姿と異なったとき、どうやって自分であると認識できるか?容姿が変わっても自分であると思うか。ドッペルゲンガーは自分ではない。知覚では定義できないだろう。
自分を表す言葉があるだろう。固有名詞を探してみよう。
「アマチュア写真家」「探究者」...
しっくり来ない。これは自分を示す言葉にはなりえるが、肩書に過ぎず、自分を一意に定義できない。同じような背景を持つ人は、他にもいるはずだ。
「群衆の描写に特化したアマチュア写真家」
修飾部をつけると絞れてくる。でもそれは名詞とは言えない。もっとシンプルなのか?
この問いを旅先で見た開聞岳をきっかけに考えてみた。
「郷土富士」「低標高」「百名山」「淡麗」「おおらか」「たくましい」
言葉を並べれば、開聞岳を想像することはできるだろう。果たして開聞岳は自分が開聞岳であるとわかるのだろうか?開聞岳は自分が淡麗かつたくましい山だと認識できるだろうか?山には知覚がない。これらの言葉は他己定義にすぎない。
人間にもこの疑問は当てはまるだろう。
自分を修飾する形容詞を並べて絞れば、自分を認識することはできる。ところが「活発な」「明るい」といった形容詞は、他者と比較しないと成立しない。自分というのは、他者との比較から得られた印象を重ねた積集合だろう。自分は偶像である。
自分を定義しようとした。自分は偶像だった。自分は相対的な関係で成り立ち、代名詞では表せない。
❏ 自分らしい?
自分の代名詞はなかった。でも、自分らしいと思うことはあったはずだ。自分の特徴が出る瞬間を、自分らしいと呼ぶだろう。自分らしい動詞なら、あるんじゃないか?
「闘う」「変わらないために変わる」「立ち止まるために走る」
しっくり来る。自分の言動を振り返ることで自分らしいと認識できる。だから動詞ならしっくり来るんだな。自分は自分のことを微小の過去になって初めて認識できる。時間を無限小に極限を取ったところで、それは偶像になってしまう。
自分を言葉で置き換えようとした。品詞によって見方が異なることがわかった。
名詞 :確立した自我は存在しない。
形容詞:自分は相対的な存在。自分は偶像である。
動詞 :自分は時間軸を介して自分らしさを認識できる。
自分のアイデンティティは、立ち止まるために走ること。
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ここまでたどり着くのに1年半。当時25歳。自分なりの答えを見つけ、雲の晴れた気分になれました。The Quarter Ride、ALPS500、宗谷縦走など、挑戦的な旅を繰り返したのもこの答えに気づいたから。自分探しの旅と例えられる割に、自分は偶像だと考えに至ったときはショックを受けました。旅は過程を楽しむものであるから、自分を時間軸で見る機会を作るという意味で自分探しの旅と言うんでしょう。
❏ 唯識を知る
話変わって。
コテンラジオというPodcast番組があります。歴史を介して世界を知ろうの趣旨のもと、歴史上の偉人や出来事をテーマに挙げ、背景から順を追って解説する番組です。「フランス革命」「吉田松陰・高杉晋作」など日本史・世界史の教科書で単元になるテーマや、「お金の歴史」「教育の歴史」など教科書では扱わないテーマまで幅広く扱います。
コテンラジオの中で、「最澄・空海」をテーマにした回がありました。背景から話すので、大半の話題は仏教です。ここで仏教は宗教ではなく哲学であると知ります。苦しくない生き方を思考し、共有し、体得しよう。なるほど。
日本で主流の仏教は大乗仏教です。みんなで悟ろうね、というもの。大乗仏教は「唯識」「空」の大きく二つの思想から成ります。この唯識(ゆいしき)に驚きました。
唯識の説くものは「世界は自分の認識でできている」というもの。自分の常識と他人の常識って違うよね、それって一人ひとりに世界があるのと一緒じゃない?という内容を、論理的に説明しています。第一印象「は?」ですが、掘り下げていくと非常に納得のいく思想です。
唯識の中で、縁起という概念があります。「すべては関係性であり、個々に実体はない」とか「自分は、周りのすべて以外のもの」とか言い始めます。
?
それ自分は偶像であるって気づきと同じじゃん。勝手に仏教の概念にたどり着いていたのか。非常に論理的に思想を追求しているのなら、他にも参考になる概念があるのでは?
ということで、『唯識の思想』(横山紘一 著)を最近読んでいます。コテンラジオの「最澄・空海」「玄奘(西遊記の三蔵法師)」の回は、ぜひ聴いて欲しいです。難しい概念が連発しますが、心底興味深いです。
アイデンティティの問いが仏教に書かれているなんて思いもしませんでした。
点と点は繋がるんだな、とジョブズの言葉を体感した次第でした。
では。